FC2ブログ

坊ちゃん

こんにちは、高橋です。ついに最後のゼミブログが回ってきました。

普通なら、大学時代やゼミでの思い出を振り返るところですが、社会人になる前に1度やっておきたいということで、恥の多い自分の半生を振り返りたいと思います。もちろん、かなりの自分勝手を承知でこんなことをするのですが、なぜ僕が個性的だとか、自分の世界を持っているとか言われるのかが分かる良い(?)機会だと思います。

(因みにこれを書いている現在は、夜中の1時半です。昨晩はオールを経て、昼過ぎまで寝ていたので眠くありません。丁度NHKで『ラブライブ!』の一挙放送が始まりました。これを横目に深夜のテンションで書きます。おそらく前代未聞の長さになります(!)。なので、PCで読むことを推奨します。最後まで迷惑かけます。)


************************************

親譲りの規則正しさで、子供の時から器用貧乏とばかり言われた。幼少期から、ピアノ、エレクトーン、サッカー、スイミング、英語教室、書道と習い事漬けの日々を過ごし、何でもそつなくこなしていた。周りの子と比べたらハードスケジュールだけど、専業主婦の母と祖父母が常に家に居る我が家は何かと環境がよかったらしく、小学生時代は放課後に友達が10人近く遊びに来るのはざらだった。父は毎日夕食の時間には帰ってくるし、休日は車で色んな所へ連れて行ってくれた。昆虫採集やサッカー観戦など様々なことに興味を持ったのはこの頃からだ。いつしか、同級生たちは自分のことを「お坊ちゃん」だと思うようになっていた。


中学生になっても、大抵のことは人より出来た。家庭科以外の成績はオール5、授業を聴いているだけなのにテストは1番だった。放課後はクラブでのサッカーの練習や、ピアノのコンクールの準備があったから、少しだけクラスメイトと遊ぶ機会は減ったけど、別に寂しくはなかった。その頃幼馴染たちは不良化していったけど、そもそも皆自分の家に来ていたような奴らだし、学年一の不良は祖母同士が友達だったから、自分だけは絶対に手を出されないおいしいポジションに居た。そんなことで、学校ではやんちゃな奴らとつるみながら、学校の成績はトップ、サッカーも上手い、おまけにピアノまで弾ける、というちょっとしたスーパーマンで、正直言ってモテた。何人かふったし、バレンタインには好きだった子にチョコを貰って、空き箱を自分の部屋の机の引き出しに隠していたら、掃除した母に見つかって戸惑ったりした。
 

そして、県内トップの進学校に入学した。僕の中学からは自分を含めて5人が受験したけど、受かったのは自分だけだった。このことで中学までの同級生とますます疎遠になったけど、受験期は学習塾に通っていたから入学した時点でそこそこ友達はいた。失礼な言い方にはなるけど、同じ水準の学力の人たちの方が話が合うし、この学校の生徒は医者や社長の子、山形市内出身の子が多かったから、なんとなく文化レベルが高くて刺激的だった。この高校時代に起きた2つの出来事で、自分の性格というか人生が大きく変わった気がする。
 
ひとつ目は、怪我をしてサッカー部を辞めたこと。中学時代に痛めた背中がよくならず、1年生の途中で退部した。すると、元々音楽の先生に目をつけられていたらしく、すぐに合唱部に引きずり込まれた。それまでサッカー部という、学内では1番ウェーイ系(!)の集団で生きてきた自分が、ほとんどそれとは真逆の集団に入ったことになる。はっきり言って地味な子が多かったけれど、みんな真面目ないい人ばかりだったから、むしろ過ごしやすかったように思う。それに、親友と呼べるような友人も出来た。ラーメン屋を食べてまわるのも、東京事変のライブに行くのもいつも彼と一緒だった。さらに、顧問の音楽の先生がとんでもないクラシックおたくだった。この出会いがあったから、現在にも続く自分のクラシック音楽趣味が始まることになった。
 

もうひとつは、恋をしたこと。僕は、好きな人がいない時期が殆んどないような恋愛体質だったけれど、これほど1人の人に夢中になったのは初めてだった。高一の秋口、最寄り駅が同じの女子高に通う子に一目惚れし、あの手この手でメアドを手に入れようとした(こういう謎の行動力は元サッカー部ゆえだと思われる)。しかし、彼氏(歳上)がいるからと軽くあしらわれ、そもそもメアド聞こうとした時点で好きだと言っているようなものだし、その女子高一味から何かとからかわれるようになった。例えば、帰り道に出くわすとニヤニヤされたり、りある(当時流行っていた日記風のサイト)の書き込みに反応されたりした。この頃、自分の中で悪の華(cf.押見修造)のようなものが花開いたらしく、粘着気質(またの名をストーカー気質)や、好きな子になら何をされてもかまわないというようなMっ気が生まれた。ほとんど登校時と下校時にその子を見たいから学校に通うというかなりのこじらせぶりだった。

さらに、モテたいからファッションにも気を遣った。周りとの差別化を図るため、服を買う時はわざわざ仙台にまで通っていた。結果、BAPEのカバン、ベルト、スニーカーを身につけ、ワイシャツの中にはSTUSSYのTシャツ、その上にBEAMS のカーディガンを着て登校するという、今考えると相当ヤバイ奴だった。バイトもしていないのに、1年間で私服に15万円くらいかけていた(相当あまやかされて育ちました…)。上に兄弟がいない自分が、こういう事に興味を持つようになったのは、ファション誌を熱心に読んでいたからだ(特にsmartを読んでいたので、ゼミの文献に出てきた『ちんかめ』とかよく知っていました)


その一方で、恋愛のことで頭がいっぱい過ぎて勉強に身が入らなくなり、成績は一気に下降線を辿った。周りのレベルについて行けず、中学時代までの栄光虚しく赤点を取ることもあった。2年からは、国語が苦手で数学が得意なのに、化学が出来な過ぎて逃げるように文系に進んだ。



学内での成績は中の下から下の上あたりに落ち着いてきた高2の終盤、部活の先輩が実際に入学したことに影響を受け、音大を受験することに決めた。音大といっても、プロのクラシック演奏家になるわけではない。簡単にいうと、「音大卒」の肩書きを手に入れ、当時愛聴していた東京事変のようなミュージシャンかスタジオなどで活躍する人になりたいと考えていた。とはいえ高校の面目的にも、私立の音大に行くとか、フリーターになってミュージシャンを目指すというような「ソラニン(cf.浅野いにお)精神」などはなく、最も権威ある東京藝大で新設されたばかりだった学部を目指すことにした。
 
 
高3からは、数学の時間が学年でただ1人だけ音楽の授業に代わり、部活の顧問と音楽史や楽典をみっちり学んだ。高校入学以来、レッスン回数を減らしていたピアノだったけど、せっかくの機会だとバッハやベートーヴェン、ショパンなどを練習した。厳密には楽器が弾けなくても入学可能な学部だったけど、入試の最終段階として課される何をしてもいいというパフォーマンス試験で、自分で編曲したピアノ曲を演奏することにした。この頃は、何故か根拠のない自信に満ち溢れていて、自分は将来凄い奴になる気がしていた。おそらく人生で1番天狗になっていた時期だと思う。自分には他の人にはない何か「特別」なものがあると信じていた。

受験勉強は、センター試験の対策だけで良かったため、周りよりモチベーションは低かった。受験に必要なのは国語と英語と何か一教科だから絞ってもよかったけど、得意教科もないので、数学以外の地理、政治経済、生物はダラダラと勉強した。基本的に旧帝大を目指す同級生たちが、メキメキと二次試験の力を身につけていく中、自分だけは音楽の筆記試験や小論文、面接とパフォーマンスの練習に明け暮れた。
 



年が明けて一月、センター試験の結果は微妙だった。英語と生物は9割取れたけど、国語が7割を切ってしまい、結果的にボーダーよりやや下くらいからのスタートになった。親友はAOで東北大に、一緒に受験勉強していた同じ部活のメンバーも医学部に受かるなど、次々と身近な友達の進路が決まっていくことに、内心かなり焦っていた。でも、自分には音楽の道しかないからと言い聞かせ、必死に二次試験の準備をした。


二次試験は2月25日から数日置きに行われ、その期間は山形には戻らず、上野のビジネスホテルに10日以上連泊した(新幹線乗るより泊まった方が安く済む)。このせいで、高校の卒業式には出席出来なかった。試験の中日は、池袋のスタジオでピアノの練習やカフェで小論文対策をし、毎日夕方に湯島天神にお参りに行った。この期間は、孤独が何よりも辛かった。受験という大きなプレッシャーで押し潰されそうなのに、大好きな家族や友達にも会えない。上野のやよい軒で夕飯を食べている時、母と電話で話をしていたら涙が出てしまい、周りの客に変に思われないよう咄嗟にマスクをし、花粉症を装ったことがあった。

それでもなんとか乗り切り、手応えがあるようなないような、なんだかスッキリしないまま、無事受験の全日程を終え、一先ず帰路についた。





そして、2011年3月13日、合格発表に自分の番号はなかった。
大震災から2日後、僕の故郷山形は翌日まで停電し、ガソリンや食料品が品薄になるなど混乱を極めていたが、そんなこととは比べ物にならないくらいパニックになった。

落ちた事が分かった時、頭の整理がつかず、なんだかよく分からないまま母に「ごめん」と小さく謝った事を今でも鮮明に覚えている。父には「お前は、なんでもうまくいくタイプだと思っていた。」みたいな事を言われた気がする。そうなのだ、きっとそれまで自分は周りからは苦労することなく人生を歩んで来ていたと思われていた。そして、それなりに両親の期待には応えていたのかもしれない。だから、親の目にも、息子の生まれて初めての大きな挫折として映ったであろう。落ち込むというより、自分の中の「大きな物語」のようなものが崩壊して唖然とした。

 

10日ほど何もしない日が続いた後、さすがにこのままニートになるわけにもいかないと思った。山形に予備校はないから、ひとまず仙台の河合塾に入った。運良く自宅は仙台まで一時間半のところにあったから、実家から通った。震災があったばかりだったから、かえって家族も安心したようだ。

はじめ、再び藝大を受験するかどうかで悩んだ。でも、これからは音楽の先生に日常的に会えないし、なんかコスパが悪い気がするし、とあれこれ理由を探して普通の大学を受験することにした。今思えば、単に根性がなかっただけだと思う。

しかし、自分はそもそも「大学」というものに驚くほど興味がなかった。上に兄弟がいるわけでもないし、田舎は日常生活中に大学生を見かけないから、その実態がよく分からなかった。そんなぼんやりとしたものに向かっていくような奇妙な気分のまま、2度目の受験勉強が始まった。1年間数学を休んだことと、二次の対策を現役時にしてこなかった分、遅れをとったスタートだったけど、とりあえず、自分より下の高校だったヤツらには負けたくないというような馬鹿げたプライドだけがモチベーションだった。


この時期に勉強で変わったことは、嫌いだった現代文が好きになったことだ。予備校の先生は話が面白く、オーディオおたくだったこともあり、直ぐ好きになった。それまで自分は、雑誌やマンガはかなり読むけど、本は殆んど読まない子だった。でも、その先生に勧められ、近代の文豪の作品を中心に小説を読むようになった。毎日の行き帰りのバスの中で、夏目漱石や太宰治、三島由紀夫などを読み漁った。文章を「書く」のは今でも苦手だけれど、とりあえず「読む」事自体は好きと言えるほどになった。
 

もうひとつ変わった事といえば、深夜アニメを見るようになったことだ。翌日に講義がない金曜の夜は、いつもより遅くまで勉強をしながら23時からBS11でアニメを見ていた。『変ゼミ』、『呼んでますよ、アザゼルさん。』、『Rio RainbowGate!』、『30歳の保健体育』などを見ていた記憶がある。また、『けいおん!』の再放送もこの頃に見た。今思うと、これが自分の深夜アニメ趣味の黎明期だった。


仙台での浪人生活は、実際は結構楽しかった。部活がない分高校生よりは自由な時間が多いし、街も発展している。その時はじめて訪れたタワレコには毎週のように通い、実はロキノン系もチェックしていた。それに、同級生の多くは東北大に進学していたから、むしろ高校時代よりも遊ぶ機会は得られた。時には、両親に友達の家で遊んでくると嘘をつき、女の子の家に泊まりに行くような週末もあった。遅れてきた反抗期だったかもしれない。


 

(‥‥ここからやっと国日の話が出てきます。)
 



年が明け、再び受験シーズンがやってきた。僕は、明大を滑り止めとしてセンター3教科利用で出願した。その際に国日を選んだ理由は至ってシンプルだ。1番点数が取れそうな英語の得点配分が他学部に比べて大きかったからだ。そんな打算的な考えだけで、ハガキにシールを貼った。もちろんオープンキャンパスに行ってもないし、大学案内すら読んでいない。
 
2度目のセンター試験は思いの外うまくいった。政経・倫理と数Ⅱが8割を切ってしまったが、心配していた国語と数Ⅰは8割取れたし、英語は9割、生物と地理に関しては1問間違いのみという中々いい結果だった。それでは、二次はどこに出願しようかとなるけれど、昨年の失敗の恐怖から割とセンターの対策に力を入れてしまった自分は、教科によって二次試験に今ひとつ自信が持てなかった。東北大は自分の高校の後輩たちが大量に入ってくるからなんか嫌だし、そうなると地理が使える一橋か筑波‥‥。整数問題は面白いけれど一橋の国語は東北より重いし、赤本を見た限り筑波の地理も相性悪そうだな‥‥と、最終的にどこにも願書を出したくないという意味不明な境地に立たされた。


そこで、浮かんだのが「私大に逃げちゃえ作戦」だ。予備校では国立大コースなのに、とりあえず早稲田の赤本を買った。教科数が少ない分内容はマニアックだったけれど、記述力勝負の国立大よりはだいぶ楽に思えた。結局国立大の願書はセンターの5教科だけで合否が決まる横国に出願し、逆にこっちが滑り止めみたいになった。


突然私大の対策をはじめ、早稲田の受験が間近に迫ったある日、国日の合格が発表された。最初は「ふーん。」という感じだったけれど、何だかんだ初めて大学に受かったので純粋に嬉しかったし、とりあえずは春から大学生になれるという安心感に包まれた。それで気が抜けたわけでないと思うけど、謎のハイテンションで受けた早稲田は、地理だけが異様に難しくて不本意な結果に終わった。そしてその一週間後の閏日、自分にとって重大なイベントが控えていた。東京事変の解散である。
 

武道館での解散ライブは、運良くアリーナ席5列目中央で見る事が出来た。彼らの解散はセンター数日前急に伝えられたけど、元々解散する気がしていたので特に動揺はなかった。だけど、目の前で大好きな曲たちがひとつひとつ消費されていくのはこの上なく寂しかった。光り輝く舞台に立つメンバーを見ながら、自分自身のこれまでについてあれこれ思いを馳せた。「俺、結局この人たちみたいになりたくて、たったそれだけの理由で去年音大受けちゃったんだよなぁ~」となんだか虚しくて、自嘲のような笑いが沸き起こった。
 
ライブ終了後は、かえってスッキリした気分だったことを覚えている。今でもそう思っているけど、東京事変ほど音楽性と演奏技術に長け、それでいてメンバー全員の調和がとれているバンドはない。なんというかその事実でもう十分な気がした。1年前までミュージシャンや音楽プロデューサーになりたいとか言っていた男が一気に、J-popから興味がなくなった瞬間だった。


3月、案の定横国は受かっていた。だけど、なんとなく東京に住みたいという憧れと、留学出来るみたいだしというくらいの気持ちで国日へ入学することにした。これが一般的な判断ではないことは分かっていたはずなのに、入学を許してくれた両親には頭が上がらない。



(‥‥お疲れ様です、ここからようやく大学生編です。)
 



4月、知り合いゼロの状態で上京し、クラス分けのTOEFLの試験後にメディア棟から出ると、すぐに声をかけてくれた先輩が林檎班(椎名林檎のファンクラブ)だったことで意気投合し、サークルの部室に連れて行かれた。それが、その後の4年間身を置くことになるピアノサークルとの出会いだった。

浪人時代は、新しい曲を全く練習していなかったけど、高校時代に弾いたベートーヴェンのソナタを披露したところ、とても気に入られ、すぐに入会することにした。自分はどうやらこの年最初の新入生だったらしく、かなり歓迎された。まだ授業も始まっていない新歓期間は、新宿で『映画けいおん!』(この時期に3回見た)を観た後に和泉の部室に寄り、サークルの先輩たちと飲むという日々を送っていた。多分この場のどれかにこっちー(現宮本ゼミ5期生、小知和さん)がいたと思う。


1年次の授業は専ら英語ばかりだ。余裕で1番レベルの高いGクラスでしょと高を括っていたらJクラスになり、しかも土曜に必修が入るというハズレクラスだった。この頃から、国日の人間とは何だか馬が合わないことが判明する。週に8回も一緒に授業を受けているのに、全然仲がいい感じがしなかった。だから、基本的にサークルの人とだけ遊んでいた。サークルでは、音楽のみならず、深夜アニメ好きや読書家の先輩方も多く、とにかく影響受けまくりだった。高校時代までの遅れを取り戻すべく、浴びるようにアニメを見たり、かっこつけてマルクスやドストエフスキーなどを読んだりした。こっちーとは中野先生のファッション文化史を一緒に受講していた。秋頃の授業中、こっちーが悩んでいた宮本ゼミ入室試験の問題を一緒に考えたことがある。
 
Jクラスだからといって腐れてはよくない、せめて2年時にセメスター留学しようという決意の下、英語の勉強というかTOEFLの対策は少しした。周りよりは受験英語の積み重ねがあったので、問題はスピーキングだけだった。そのために学部はオフィスアワーという素晴らしい英会話の機会を与えてくれているというのに、国日不信の自分は全く行かず、参考書を数冊買って、毎日CDを聴いて時間を測りながら自宅で一人スピーキングの練習をしていた。変なところで意地を張るけど、妙にストイックな自分である。そのかいあってか、意外と簡単にTOEFLの点数は伸び、翌年にNYに留学することになった。
 

2年前期は、英語はGクラスになったが、ますますアメリカかぶれのような子が増えることになり、特に楽しかった覚えはない。同じクラスには後にゼミの同期になる菅野さんがいたけれど、これといって話をした記憶はない。相変わらずのサークル充だった。
 

そして、後期は待ちに待ったNY留学。明大からは10人以上が向かったのに、誰ひとり知り合いがおらず、ひたすら孤独の中を生きていた。一人っ子にとって外国人との寮暮らしは息苦しく、ルームメイトとはFacebookで友達にすらならなかった。もし時間があったら読もうと持って行った『罪と罰』上下巻を一週間ほどで読み終え、授業の空きコマは部屋に戻り、当時放送中だった『キルラキル』や『物語シリーズ』を見るのが何よりの楽しみだった。唯一の癒しは、一緒に留学に来ていた金沢大の子が2人とも可愛かったことくらいだ。


でも、僕の本来の留学の目的であった「音楽生活」ついてはこの上なく充実していた。この大学は音楽学部を持っていたから、著名なピアニストの講義を受講出来たし、放課後にピアノの練習もしやすかった。さらに、毎週のようにマンハッタンに通い、カーネギーホールでオーケストラや、メトロポリタンオペラを鑑賞しまくった。こんなニッチな趣味についてくる仲間は当然おらず、全て一人行動だったけど、おかげで自由に名所を回れたし、地図を見ずにどこへでも歩けるようになった。


丁度この時期に、ゼミ試があった。それまでどちらの先生の授業も受けたことがなかったけど、人よりマンガやアニメが好きな自分は、宮本ゼミか森川ゼミのどちらかに入るんだろうなとは前々から思っていた。自分はサブカルチャー全体に興味がある事、なるべくアカデミックな論文が書きたいこと、上の代にこっちーがいたこと、どちらかといえばゼミ試が楽なことなど色々考慮し、宮本ゼミに入ることになった。
 

3年になって、いよいよ本格的にゼミが始動した。ゼミの同期は、1年生の時体育の授業で一緒だった漆間くんと、英語のクラスが同じだった菅野さんを除いて、はっきり言ってこの2年間学内で見かけたことがないような人ばかりに見えた(マジでごめんなさい)。何はともあれ、サークルにしか居場所がなかった自分に、学部内で居場所が出来たはずだった。

ところが、これは他の5期生にも言えることかもしれないけど、前期はわりと本性を隠してゼミで活動していたような気がする。自分は相変わらずサークルの仲間と遊んでいたし、とりあえずちょっと変な奴くらいに思われていたんじゃないだろうか。結局、夏休みのゼミ旅行くらいから段々打ち解けてきたから、やっぱりスマブラは偉大なゲームだと思った。

後期、留学時にバイトを辞めて以来、しばらくニート生活をしていたけど、流石に人間的にダメになりそうだったので、最寄り駅近くの居酒屋でバイトをするようになった。今思えば、ゼミブログ最初のエントリーで書いていた店だ。また、明大祭後は、サークルで色々あったこともあり、完全にゼミの方が自分の居場所になった(その節は岩谷さん、石垣さんたいへんお世話になりました)

 

4年前期は、みんなと同じように就活に追われた。音楽の道を諦めた自分にとって、正直特になりたい職業はなく、この歳になってようやく現実を見るようになったと思う。その中でも一応志望していた業界には入ることが出来たから、酷く落ち込んだりはしないけれど、決して満足はできないし、これで本当に良かったのだろうかと今でもたまに考えて暗くなる。
 

後期は、とにかく卒論に追われた記憶がほとんどだ。僕のテーマはマンガ『おやすみプンプン』の作品論。もし、この作品を読んだことがあるならば、ここまでの自分の半生を見るとなんとなく僕がこの作品に惹かれた理由が分かってくれるかもしれない。大事な局面で逃げてばっかりのところ案外ピュアで、すぐ落ち込むところ女の子に振り回されやすいところとかプンプンそっくりだ。執筆作業は、いくらやってもキリがなく、明らかに自分より遅れて卒論を書き始めたサークルの友達が続々と終わっていく中、何でこんなに時間がかかるのかとイライラすることも多かったけれど、自分の卒論、愛憎入り混じってますけど結構好きですよ。




(‥‥振り返り終わり!読んでくださりありがとうございました。そろそろ寝ます。)
************************************



‥‥はい、結局大学やゼミの内容が薄くなってしまいました。自分は何かと過去にとらわれやすく、なんというか、昔の自分のほうが、自分自身が楽しめていた気がしてしまうんです(笑)。「もし~だったら」、「もし~れば」とばかり考えてしまう、「山形タラレバ息子(cf.東村アキコ)」です。あの時もう一歩踏ん張りが効いていれば、全然違った人生を歩んでいたのではないかという思いが、今でもたまに頭の中を駆け巡ります。『かくかくしかじか(cf.東村アキコ)』の明子ように、たとえ藝大行けなくても好きなことを諦めていなかったら成功していたんじゃないか、と未だにくすぶってしまうこともあります。でも、たいていの現在の自分の性格や趣味などは、こうして振り返ると辻褄が合うので、やっぱりこうなる運命だった気もします。


‥‥そんなこんなでいよいよ卒業です。社会人になってしまいます。

大学生活は楽しかったか?と問われるとよく分かりません。もちろん楽しいこともたくさんありましたが、それ以上にあっけなさの方が大きいです。まるで好きだったマンガが連載終了した時のように、心にぽっかりと穴が開いたような気分です。


実際4年間で何か形になったことを学べたという感覚はあまりありません。あれこれ色んなものに手を出して、小手先の知識を蓄えたくらいです。別に対抗しようというわけではありませんが、どんな分野であっても自分より詳しい人、優れた人はいくらでもいます。達成感のようなものは驚くほどありません。まぁ、知識欲だけは人一倍あると思うので、これだけは失くなさいようにしたいです。「学び」に終わりはないということですね。


それでも、宮本ゼミで過ごしたことはたいへん有意義でした。
自分が苦手としていた、グループワークをこんなに多く経験したのは初めてです。文献講読では、文化や流行の裏にはそれなりの背景となる要因があること、時には分野を横断してその繋がりについて考えることの大切さを学びました。そして、間違いなく学部一厳しい管理下で制作した卒論は、日頃の講義の期末レポートくらいでは経験することのない「生みの苦しみ」みたいなものを十二分に味わいました。これらは、きっと将来のあらゆる場面で活きてくれると信じています。本当にお世話になりました。



とりあえず、この時期に落ち込んでる場合ではありませんね(笑)。先日、バイト先にいらした業界の先輩に、「右手で会社の金になることをしっかりして、左手で好きなことをやり続けなさい。」と教わりました。このことを胸に、少しでも前向きに今後の人生を歩んで行きたいです。因みに僕は、宮本先生と同じく左利きです。




最後に、ブログとは全く関係ありませんが、ひと月くらい前に、ピアノを演奏した模様がYouTubeにアップされたので、なんとなく貼っておきます。ノルウェー出身の作曲家グリーグの『ピアノソナタ2楽章』と『春に寄す』の2曲です。卒論制作&発表や、春休みの旅行などのせいで、実際ちゃんとした練習期間は1週間くらいしか取れず、結構やばかったのですが、なんとか持ちこたえました。特に後者の曲は、外国でホームシックになったグリーグが、故郷の大自然を想って書いたそうです。「実家大好き人間」の自分にはお似合いの曲だと思います。録音状態があまりよろしくないので、是非イヤホンで聴いてみてください。



それではゼミ生のみなさん、たいへんお世話になりました。
とりあえず、働いてからも飲みましょう!!

ゼミブログ、ラストを飾るのは、卒業式当日が初出勤とかよく分からないことを言っていたゼミ長の荒井くんです。よろしくお願いします!
スポンサーサイト



自分の先生になる!

 今日の担当は李楠です!
  塚田さんの長文に感動しました。つい、学生時代の思い出が溢れてしまいました。
  20年も続いてきた学生時代が終わります。
 振り返ると、問題に対して、小学生時代は絶対的な答えがあるが、成長とともに答えがだんだん曖昧になってきました。それでも、それらのすべては先生たちのおかげで、なんとなく方向性ははっきりしていました。
  しかし、卒業と同時に、自分は自分の先生にならなければなりません...。

 誰でも迷うでしょう

 自分はこれから自分を二つに分け、ひとつはごく普通の自分、もう一つは常に自分以上の存在で、何かあったら、自分を指導するべきです。

 大学時代は何をやっていただろう。
 大学時代は何をやるべきだっただろう。


  「もし、もう一度一年生に戻ったら...」という考えがあると思うが、もう一度戻ったら、人は変わりますか? 悔いがあることは悪いことではありません、思い出すたび、心が「ギュー」とすることは今後の道の印となると思います
----------------------------
  明治大学に入学するところはわくわくした気持ちは今でも覚えています。そして、国際日本学部で様々な知識に触れて、自分の世界観はかなり広がりました。
 やはり、日本に来てよかったです。もし来なければ、この世界の面白さは一生わからないかもしれません。
----------------------------

 宮本先生とゼミのみんなさん、いろいろお世話になりました!
  いつもわからないことを詳しく教えてくれて本当に心から感謝します、みんなと付き合ってよかったと思います。
あしたは高橋君の番です、よろしくお願いします!